昭和42年12月16日 朝の御理解
ある一つのことが計画され、その計画になったことが、計画どおりにスムーズに進んでまいりますと気分が良いのですけれども、その計画が、一つも、いわゆる計画倒になり、後が進まない、そういうようなときがございますですね。
四神様、二代金光様は、氏子心配に打ち込むなとこう言う。信心に打ち込めと言う。もうこの通りでございます。あれがああならん、こうならん、もう気が気じゃない。そういうときに、ああしないか、こうしないかと、例えば、自分が采配振ってもらったところでです、ね、それが意のままにならない、いうような時は特にそれです。そういう時には、その事柄に取り組まずに、神様の方へ取り組む。だから取り組むということは、これはどうぞ神様お願いいたします、お願いいたしますということだけではない。
昨日、午前十時か、ある方がお願いをする。名誉会長が、今申しますようにある一つのことが計画されて、あるいは中々そのー、ホーントに、その周囲の人ですかね、今、言うなら、家内が一つでもそれに協力してくれない。子供達は何をしよるやら。もう、私だけはもう気は気じゃないのですけれどもというよな、そのお届けでした。
その横で、私はお届けさして頂きましたらね、馬に乗ってるんですよね。それで馬の手綱をこう引き締めてる。そして、一生懸命その、後ろの方の、いわゆる、馬の尻を、鞭で叩いておるところを頂きます。私は馬のことはよく分かり、分かりませんけれども、とにかくあの、手綱があんなに、あの、こう、引き締めたらもう走られんのじゃないかとこう思いますね。
まぁいうなら、馬の手綱は適当に緩めて、そして、お尻を叩けば馬が走れる。あんまり、ああでもない、こうでもないとこう、その、いきり立って、その馬が采配を振ってもです、それが、その、スムーズに行かんとこうならですね、ここに一つ、ホントに、そのことはもう・?でて、もうそのことは一つ、まぁいうならそのことを棚に上げて、心配のことを棚に上げて、神様一心にすがっていかなきゃならん。一心にすがるというても、ね、ついにその、親先生から私は感じました。
馬のお知らせは、卑しい心というふうに頂けます。ね、ですから、自分の卑しい心の方にむしを、向きをとらなければならない。自分が改まるということに、一生懸命ならにゃ行かん。自分が改まろうともしない、一心になろうともしない、一生懸命の信心もできんというてから、そして、自分の思いにならんというて、思いにならん方ばっかりを引き締めていく。いわゆる、心配しておってもそれではおかげにならん。
これはまぁ、おかげを頂く一つの、本当のこつあいでもありますですね。氏子心配するな、心配の氏子も、信心に打ち込め。ね。または、氏子が心配すると、神が心配せんで済むと仰る。神様に心配してもらわんじゃったら困りますもんね。
心配事をずらーっと並べて、神様の前へ、言わば、まぁその、並べるようなもの。これもおかげを頂きますように、これもどうぞお願いしますとこうやって、心配事の限りをここに並べたてる。そして、ホントにその、並び立てて、ここにまぁ言うなら、お供えしていってしまやいいのだけれども、また帰りがけその心配を持って帰るんですからね、理屈を言うと。これじゃあおかげになるはずがないです。
心配は神様に、もうお預けしなきゃならん。もうお任せせなければ。ね、そこで心配に落ち込むなと。または、氏子が心配すれば、神が心配せんで済むと仰る。心配は神様にしてもろうて、ね。心配は神様にしてもろうて、自分は信心の方へ一生懸命なりゃいいていうこと。
馬の手綱ばっかり引き締めて、で、いかにけつを叩きましてもです、動かない。走られん、それではいよいよ。それに、自分も心の中に、本気で自分というものを見極めさしてもろうて、改まらなければならないところ、磨かなければならないところ、いわゆる、こんな自分の汚い心をという心をです、いよいよ、私はあらためて行くことに一生懸命なりゃ、こちらの方がスムーズに行くのである。おかげになるのです。ね。
日々のことでもおんなじことですよ。うん。その願い事は、例えばお取次ぎを頂いたら、もそれが気にかからんぐらい、忘れておられるぐらいにあらなければいけません。それが慢心と。そこにね、神様が十二分に働いてくださる場ができるんですよ。私どもが心配する、神様が十二分に働いて下さろうとしておっても、その十二分の場を狭めていくに、のに、とおんなじです。または、その、神様の働きの場を私どもが占領してしまうわけなんです。ね。
あのー、久留米の笠さんの、お家の問題。もう簡単に言いますけども、実を言うたらもう大変な問題でしたですね、その笠さんとはしては。家をいついつまでに開けなきゃならん。多分、親子が五人ですか。自分がどっか、間借りでもすればいい、家を一軒借りればいいていったようなことじゃいかんのですよね。
なさらく、仕事が、ああいう自動車の修繕をなさるんですから、ですね、住まいはもとよりとして、あの工場にもう使われ、広場も、自動車を置く広場もなからなきゃならないといったような、条件があるし、そういうところ、もう気にのあまり、もう神様任せで、神様がまだ手をうつことはいらん、まだ心配するなと。
だが心配になる。けれどもその心配のたんびんに、その笠さんが心の中に自分で思われたこと。もう一月、もう十五日、と、切羽詰ってくるわけなんですよね。親父さんの方からも(?だんげ)をされて、こうしておられるとです、やっぱ心配になるんです。そういう時に、それこそ自分の頭をうちふって、自分で心配どんしちゃならんと、こう思い続けたっちゅうわけです。ね。
自分が心配どんしちゃーならん。そこでその、信心に打ち込ませるもの。不思議に、信心に打ち込み、修行に打ち込まして頂くとです、どん腹が据わる。ね。そこで、どん腹が据わるということは、どうでもよいというような気持ちが生まれてくる。ね。そこへ、ポッと、う、浮かんでくるところの、心配というものが、打ち振り打ち振り、打ち払い打ち払い、ね。自分が心配どんしちゃーならん、心配は神様がしてもらうこと。心配は、親先生にしてもらわにゃん。自分が心配するようなことがあっちゃーならん、自分が心配せにゃーすまんといったような、考え方は、おかげは受けられません。
そこに確かに、ホントに、十二分に神様の働きを頂かせて頂くための、まぁコツですね。それからというて、信心もせんのに、はぁ、神様がどうにかしてくださると言うて、安心しておるといったような安心は、これは安心じゃないです、慢心です。ものすごい、そういう意味では、もう大きな(?ぬの)と。おかげの受けられるはずがない。ね。
自分の心の中にゆとりができる。安心ができる。こういう心配の中にあって、こういう複雑な命題を、ここに抱えておきながら、その問題を複雑に、一つも考えてない。ね、考えんですむ、心配せんですむだけの信心が、修行が、成されていかきゃいけんのです。
それでこそ、神様にお願いさして頂いておるから、お取次を頂いておるからという安心が生まれる。ね、そして、いわゆるお取次ぎ頂いておりますようにです、ね。心配の方の手綱ばっかりを引き締め、引き締めずにです、自分の心の中の、その改まらなければならないところ、卑しい心、汚い心といったような考えです、それに鞭を打たなければならん。自分が改まることに一生懸命になって、いわゆる手綱緩めていかなければならん。それを・・?に上げとかければならん。ね。
いよいよ、ご大祭が、明後日に迫りました。今度は、どういうことからだったでしょうかね、この頃十三日会の時に、17日、一日で一切の御用をしようということで、全員、集まろうということになった。まぁ、普通のご大祭でいうなら、もう三日ぐらい前から、あの床と、お掃除なり、お鏡付きだ、さぁあれこれの準備が始まるのですけれども、いわゆる大祭の前日一日で、全員が集まって、それぞれの持ち場立場でやらして頂こう。
まぁ普通から言うなら、私としては、気が気じゃない。ところでな、なかならなんですねぇ。えぇっとパンがどうか考えよるじゃろうか。今度は、もうお弁当じゃない。パンと牛乳。牛乳どっかから、もう手配しとるじゃろうか。そしてから、大体、あればその熱くしてから出すっち言いよったが、その手配もできとるじゃろうかと。例えば、お弁当一つのことだって、私が心配したら、もう限りがないのですよ。
ね、そして、私は、昨日はそのことをお取次ぎさして頂いてから、私が改まらさしてもらう、私が修行さしてもらう。そして、それができた。だから、それが不行き届きの祭りであったり、zお祭りであったりしたときには、結局自分の信心が不行き届きであり、自分の信心がおかしいということを分かって行けばいい、とこう思わしてもろうたら、私の腹は決まる。そのことを一つも心配せんですむ。
だーれも、先生、泊まるとどこに泊まるんですか、夜はどげんしますか、と、私、その、まぁ聞かんです。ま聞かんけれども、神様が何とか取り上げてくださるだろう。
もう働かん、働い、私がそういう神様の働きの場というものを、なくしてしまうようなことであったとするならばです、これはおかしなことになろうけれども、それは、私自身に一人、私だけがおかしいのである。ね、私が改まっていきゃあいいんです。ただ、自分も本気で、限りなく美しくならして頂こう、改まらして頂こう、また、ご大祭に対するところの、精進修行はさして頂こうという、気に私がなれば、いうようなもんです。例えて言うならば。ね。
皆さんの、それぞれのことも、まぁついでながらですけれども、自分がどういうポストにあるか、どういう立場にあるか、を、私ははっきり、一つ分からしてもらって、そのことに対して自分達がどのくらい、どのように、心をかけておるかと。
今日は、(?)の教会の、新築、お広前落成の、お祝いと教祖大祭があります。?者は誰が行ってくれるじゃろうか。総代は誰がお参りするごとなっとるじゃろうか。いっぱし修行生の方たちは、わかっておられるじゃろうかと。ついこの頃、自分がたの落成式のときには、みんなたくさんお参り頂いておるのだから。だいたい考えておるのじゃろうか、と、私が考え出したらきりがない。
そして、あれのどれが( ? )まぁ、いきり立って言わなきゃならんのだけれども、ねぇ。思いがなからにゃないで、自動車がなからにゃないで、ね。もうホントに信心さして頂きよってからですね、もうなんちゅうですか、もうおかげの頂けれる、おかげの頂けれるチャンスをですね、もういい加減なことに逃してしまう。もう積極的、ねぇ。
こう言うて私がおかげ頂きます、こう言うて私がと、というように誰かがするじゃろう、誰かが言うじゃろう。そういうような根性で、おかげが頂けるはずなんか絶対ないです。
ねぇ、そういうふうに信心しよったら、自分自身の上に、さぁ心配事が起こった時に、うろたえにゃならんです。ねぇ、もしそれが分からんなら横着です、その人は。だからおかげになりません。
私はしっかり、いつ、いかなる時でも、どのような場合でも、ね、どっこいと驚かんですむ。神様に対、神様にすがれる。本気で自分に取り組まれる。私信心の稽古が、日頃なされて、ようおかなければならない。そういう信心の、言わば、現し方、そういう信心が、どういうときにどういう形で現れるか、お広前に、さぁ大祭だ、御用だ、というときにです、私は、それが現れてくるとするならば、あなた方の信心な詰まらんちいわなければ仕方がない。
そん時現れんで、いつ現れるか。そうでしょう、ね。誰かするじゃろうと言ったようなそういう、程度の信心しか日頃稽古できとらんでは、今日私が言うご、ところが分からん。そういう程度であったら、馬の手綱ばっかり引き締めてから、そして、馬の尻を叩くようなもんじゃ。それでは思うように、ことが進むはずがない。
どうぞ。